〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/19 (月) にょ ほう あん (一)

「法皇の御通夜に侍しながら、コソコソ、悪謀をささやき合い、悲しみにぬれながら、眼は互いに、人のはら ばかり猜疑さいぎ し合っている。 ── 千僧の読経、金堂の荘厳も、ウソの幻覚化に役立っているだけのものだ。あんな、空涙の海みたいな中に、長くいたたまれたものではない」
悪左府頼長は、肚の中で、昂然こうぜん と、つぶやいた。
(── やむなきことが起こって、急に、宇治へ参らねばならぬので)
と、安楽寿院における ひつぎ宿直とのい を、二日目に中座して出て来たときの ── かれが牛車くるま うちでの ── 捨て言葉であった。
かれの車は、夜のやみになぎれて、すぐ近くの、田中殿の門へかくれた。
そして、ひそかに、新院に拝謁はいえつ し、
「御父子の、お別れすら、許されぬなどとく例は、和漢の朝を通じてもないことです。どんなに、御無念であったでしょう。── いまや内裏は、新帝を擁し奉って、女院や佞臣ねいしん らの巣窟そうくつ と化し去りました。人皇数十代の御世を通じ、いま程、朝廷を外道げどう跳梁ちょうりょう にまかせた時代はありますまい」
と、まな じりをあげて言った。
さなきだに、新院は、炎のような御無念を、御簾にかく して、なお、悶々たる 気色けしき の夜であった。 ── 父法皇のみまかり給う急に けつけながら、惟方これかた の毒舌や、武者の暴力に阻まれて、父君との死目にもお会いになれず、惨たるお姿を乗せて、むなしく車を回した日の口惜しさは ── 無念さは ── いかに御自身、なだめようにも、なだめきれない 容子ようす である。
いま。 ── 頼長の一言が、お耳を打つと、新院は、きっと、何かに かれたようなおん眼にになって、
「左府、差府。・・・・公ひとりが、ちんたの みぞ」
と、落涙された。そして心中のものを、一気に吐くかのような語気で、仰っしゃった。
「むかしを、今に思うても、天智、仁明にんみょう 、花山、三条などの諸帝とて、みな、その質をもって、帝位に げられ、順をこえて、 まれている。時の母后の愛情や、奸臣の意志などで、左右されるべきものではない。── 朕は、身に徳はないが、正しく、先皇鳥羽の太子に生まれ、ひとたびは帝位をかたじけの うし、上皇の尊号につら なる者。・・・・去年、近衛帝の崩御のあとは、当然、朕の一ノ宮こそ、太子たるべきはずであった。── それを、文にもあらぬ、武にもあらぬ、四ノ宮 (後白河) えられて、父子ともに、生きつつ世から葬らるることの無念さよ。・・・・それも、鳥羽のお しますうちは、ぜひもなけれ、すでに登遐とうか をみた後は、わが身が、ふたたび帝位に即くも、世人の心に背くことはあるまいと思うが。・・・・公は、どう思うか」
── 頼長は、瞑目めいもく した。
深刻なおもて をして、深思するばかりであった。
しかし、それへのお答えは、とうに、かれの胸には、用意されてあるはずだ。。世事の機微も、人間の心の底深い泥溝どろみぞ なども、のぞいたことのない相手のお人である。その上皇崇徳をして、ついに、こういわせたのは、頼長なのだ。ことばは、新院のお口から出たが、頼長の野望を、頼長に代わって、仰せ出されたようなものである。
「── 時でしょう」 と、頼長は、浩嘆こうたん して、やがて言った。
「陛下が、そう御決心あそばし給うこそ、天の時が来ているものと思われます。天の与うるを取らざれば、かえってわざわ いを受くという。再即位の例は、斉明さいめい称徳しょうとく の二朝にも、先例のあること、御憂慮には及びません」
頼長は、才略に、自負満々であった。
軍事についても。かれは、六韜りくとう や三略をそらんじているし、実兵力には、源氏の棟梁とうりょう 。源ノ為義一族を、握っているという、自信もある。
こうして、新院を擁し奉った頼長の謀略は、この夜から、また翌一日にわたって、密議されたのであった。かねて、頼長から誘われていた下心ある公卿たちも、安楽寿院の方を抜けて、夜中や未明に、ここへ移って来た。牛車や輿こし は、すべて奥深く隠し、門には、見張りを立たせ、放免を使って、情報を集めるなど、すでに前衛戦に入ったかたちである。
しかし、ここでは、諸国の軍兵を糾合きゅうごう するにも、ほかの手配にも、不便なので、頼長は一たん、宇治へ去った。 

『新・平家物語(一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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