・・・・・純情な恋の歌である。
二十一歳で夭折した美青年貴族の歌で会える。
だからよけいに哀れな歌といえる。
「もがな」 という言葉は (・・・・したい) (・・・・であってほしい) という願望の助詞である。この作者は恋を得た。恋を得ると更に人は貪欲になる。もっともっと、この幸福をむさぼりたいと思う。恋の喜びを永久にたのしむため、命長かれと願う。
しらべも美しく、切実な情趣があって、いい歌である。この歌は 『後拾遺集』 に 「女のもとより帰りてつかはしける」
とある。
作者の義孝は摂政・藤原伊尹 (コレタダ) の三男であった。歌才と美貌は父ゆずりであったらしい。百人一首には父とならんで入れられている
(45番・謙徳公) 。伊尹は時の帝円融 (エンユウ)
天皇の伯父であり、東宮 (のちの花山帝) の祖父であり、摂政であったから
「世の中は我が御心にかなはぬ事はなく」 ( 『大鏡』 ) たいへんな勢威であった。
その御曹司であるから、義孝はたいそう、もてたのである。一つ年上の兄に挙賢 (タカカタ)
があり、ともに母は代明 (ヨアキラ) 親王のおん女 (ムスメ)
であったから、母方の家柄も申し分ない。挙賢を前少将、弟の義孝があとを襲ってまた少将になったので、後 (ゴノ)
少将と世には呼んだ。王朝小説などを読むと少将あたりがロマンスの主人公によくなっている。
戦前の軍人の少将はみな老人だが、王朝小説ではハタチ前後の名門の子弟が任じられる。なまめかしい青年武官なのである。
王朝貴族の伝記をしるした 『大鏡』 には、この二人の少将のことを 「花を折り給ひし公達」 とある。社交界の花形青年貴族、というような意味であろう。
ことに後少将の義孝は歌よみであり、美男で有名でもあった。そういう青年だからラブロマンスも多かったようだ。彼の歌を集めた
『義孝集』 を見ると、いろんな女と恋をしたらしい。薄情けの女に絶望したり、自分の恋人のもとへ、さる宮が人の名を騙って忍んできたり、それでもその恋人が忘られなかったり・・・・・。
めざましい恋の遍歴に加えて、母君との愛情の贈答の歌もある。
義孝は当時の人にとっては、 「今業平」 のように思われたのかもしれない。紫式部や清少納言は彼よりやや遅れた時代の人々であるが、伝説的美男の噂と、その歌にあこがれを寄せたとみえ、それぞれ
『源氏物語』 や 『枕草子』 にその影響をとどめている。
ところで、義孝が、その人のために長く生きたい! と願った、女の名は分からない。行成 (ユキナリ)
という男の子を得た正室の夫人であったかどうかは、知るよしもない。
ただ義孝は、女性に人気のあるわりには真面目な人柄だったようで、それも仏道に心を寄せ、抹香
(マッコウ) くさいところがあったらしい。ほかの貴族の子弟たちのように、宮中の女房たちと浮ついた交渉をもったりしない。気軽な冗談を言ったり、世間話をしたりしない。
端正な青年だったようである。
あるとき、そんな彼が女房のたまりへぶらりと寄り、あれこれうちとけて雑談した。何か心の弾む楽しいことでもあったのだろうか。女房たちは珍しいことに思って歓待した。そのうち夜が更けて義孝は席を起った。これは女房たちならずとも、どこへ行くのか少し気になるところである。女房たちは人をやってこっそり尾行
(ツケ) させた。
義孝は朔平門 (サクヘイモン) から出、法華経を尊く誦
(ズン) じつつ、大宮 (オオミヤ) を北へ、氏寺
(ウジデラ) の世尊寺 (セソンジ)
に着いた。人がなお見守っていると、義孝は対 (ツイ)
の軒の紅梅の下に立ち、 「滅罪生善 (メツザイショウゼン)
往生極楽 (オウジョウゴクラク) 」 と西に向かって何度も拝んでいたそうな。その話を聞いて人々は感動したという。栄華に誇らぬ真摯で求道的な人柄だった。
「御かたちいとめでたくおはしまし」 たといわれる義孝の、そういう時の姿は ─ 月あかるく、かすみわたる早春の夜空のもと、白い直衣
(ノウシ) に濃紫 (コイムラサキ)
の指貫 (サシヌキ) (はかま) 、直衣の裾から色のある下衣
(シタギ) がみえる。顔色は月光に映えていよいよ白く、鬢の生えぎわなどもくっきり黒々と、まこtに美しい男ぶりであったと。伴に童一人つれているのみ、というのも粋なたたずまいである。
義孝のファッションも世人の関心の的だったらしい。貴族たちの野遊びの日、みなは義孝を今か今かと待っていると、おくれてやって来た彼は、白い衣を何枚か重ね、その上に香染
(コウゾメ) (うすい紅茶のような色らしい) の狩衣 (カリギヌ)
、薄紫の指貫という地味ななりで、それが贅を凝らした服装よりずっと素敵に見えた、というから、センスも抜群だったらしい。法華経をつねに呟き、紫檀と水晶の数珠を袖の内にかくすように持っていたという。
折りしも、天延 (テンエン) 二年 (974)
天下に疱瘡の病が広がった。
美しき兄弟はその厄に倒れた。朝に兄の前少将は失せ、夕方に弟の後少将・義孝は死んだ。
「一日 (ヒトヒ) がうちに二人の子供を失いひ給へりし母の北の方のおん心地、いかなりけむ、いとこそ悲しくいけたまはりしか」
と 『大鏡』 にはある。
二十一という短命の予感が彼に道心を起こさせたのか、 「長くもがな」 と彼に思わせた女の悲しみは母君に劣らなかったであろう。
子の行成は有名な書家である。
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