〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/08/11 (月)  小倉百人一首 (由良の門を)

 ゆ  ら と を 渡る舟人ふなびと かぢを絶人 え 行方ゆくへ も知らぬ 恋のみちかな
(曾禰そねの よし ただ )
紀の国の由良
その由良の海峡を渡る舟人が
梶を失ってただ ゆらゆらと
波間にただようように
わが恋もまた 行方も知れず
ただようばかり
ただゆらゆらと・・・

『新古今集』 恋の部に、 「題知らず」 としてある。
何ともふしぎな魅力にあふれた歌で、恋の不安感を美しくうたいあげていある。由良にゆらゆらをひびかせ、透かせているのもいい。門 (ト) は水の出入りする海峡。
好忠は丹後掾 (タンゴノジョウ) (丹後の国の三等官) だったので、この由良は丹後の由良川の河口ではないかともいわれるが、やはり古くからの歌枕である紀淡 (キタン) 海峡の由良をさすと解釈した方が自然だろう。
『万葉集』 に傾倒していた好忠は、万葉の歌枕の由良を頭においていたにちがいない。
この好忠という人、古来から変わり者で評判である。
一生、下級役人として終わり、ついに出世できなかった。また歌詠みとして名をあげたいと熱望していたが、彼の生きた円融 (エンユウ) ・花山 (カザン) ・一条朝 (十世紀後半。彼の生没年は分からない) ではたんに異端歌人として遇されただけであった。あまりにも歌風が一風変っていて、当時の歌の概念からかけ離れていたからである。しかし好忠にしたら、材料も修辞も従来にない新機軸を出そうと意気込んだのであった。 『好忠集』 という歌集を見ると、たとえば、

「日暮るれば 下葉 (シタハ) をぐらき 木 (コ) のもとの もの恐ろしき 夏の夕暮」
うっそうと茂った木 (コ) の下闇 (シタヤミ) は恐ろしい、というのは古来の歌の風流とは少し異質である。
「うとまねど 誰も汗こき 夏なれば 間遠 (マドキ) に寝 (ヌ) とや 心へだつる」

きらいというんじゃないんだが、何しろ汗のひどい夏なんでね、あんたと寝るのも間遠になったせいか、それにつれてあんたの心も隔たったようだね。
なんだか現代風な歌で、とても千年前の気分がしない。それだけに当時の歌壇からは 「邪道どす」 と排斥されたようである。
歌風が異端だっただけではない、好忠の性格も奇矯で偏屈だったようである。
好忠は丹後掾だったから、人々ははじめ、曾禰の姓をとって、 「曾丹後掾 (ソタンゴノジョウ) 」 といっていた。それがいつか、 「曾丹後 (ソタンゴ) 」 と呼ばれるようになり、 「曾丹 (ソタン) 」 に短縮された。嵐寛寿郎 をアラカン、坂東妻三郎をバンツマ、というようなものであろう。しかし好忠はソタン、と呼ばれるのがいやでならない。
「いまにソタンになるんじゃないか」
と腐った。ソタンといわれるのは、愛称というよりも軽侮をひびかせた呼び名だったからだろう。アラカンやバンツマは愛称であったが。
好忠はかねてより、自分の才を自負すること強かった。長く沈淪 (チンリン) して、日の当る場所へ出られないのを嘆き、世に容れられないうんぷんが次第に募っていった。いきおい、態度もとげとげしくなったろう。世間の人々は小づらにくい奴、と思ったかもしれない。
王朝の世は── といったって、現代もある部分はそうだが ── 血筋、門閥、家柄を重んじ、それを中心に動いている。一介のソタンがどうあがいても仕方なかったのである。
寛和 (カンナ) 元年 (985) 二月十三日、円融院 (エンユウイン) が船岡 (フナオカ) で子 (ネ) の日の野遊びをされた。
これは小松の根を引き、若草を摘んで一年の無病息災を祈る風流な行事である。美々しい設けを凝らして、顕官や殿上人は円融院のもとに集うた。殿上人らの末席に、今日の晴れの日に召された歌人が五人、衣冠の正装で並ぶ。と、その末席にちょこんと、粗末な身なりの老人が座っているではないか。
「何だ、ソタンじゃないか、お召しもないのに参上したのか」
人々が詰ると、好忠はすまして、
「歌よみをお召しになると聞いたからやって来たのだ。当然だろうが。召された連中に劣るわしではない。この好忠はな」
という。
人々は呆れて追い出そうとしたが、好忠、しぶとく粘って立たない。血気さかんな若い殿上人が、
「ええい、力ずくで抛り出せ!」
と指図したものだから、荒っぽい下人たちが好忠の衿がみをつかみ、隻から引きずり出して、げんこつを雨あられとくれた。これはたまらぬと逃げ出す好忠の背に、人々はどっと声を合わせて笑うのであった。
好忠、はるかに逃げて岡の上から一座に向かって大声に叫ぶよう。
「おーい、お前ら、何を笑うのじゃ。ようく聞け、上皇が子の日に歌よみをお召しになると聞いて、わしはやってきたのだ。どこが悪い。わしをおいてほんとの歌よみはあるまいが。それを酒肴に手を出しかけたところで、追い立てなぐるとは。長生きすれば恥じ多しというが、わしは恥と思わん。わしを追い立てたおぬしらが、末代までの恥じをかくのじゃわ」
── これを聞いて人々はよけい笑ったという。
「好忠、和歌は詠みけれども心の不覚にて」 と 『今昔物語』 にも書かれているが、芸術家の気概はこうあるべきもの、しかし、好忠びいきの私としては何だかせつないような話である。好忠の歌の新鮮な美しさが認められてのは、彼が死んでからであった。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ