この歌は、「枯れる」 に 「離 (カ) れる」 をかさねた、着想の面白さで勝負する。
織田正吉氏の 「絢爛たる暗合」 の中でもことに面白いのは、この源宗于の歌を51番の藤原実方の歌
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを」
に連繋させ、さしも草 「もぐさ」 と宗于の 「人目も草も」 の 「もくさ」 を並ばせるところである。宗于はそんな意図で
「もくさ」 を物名 (モモノナ) によみこんだのではなかろうが、クロスワードパズルを百首で構成しようとする定家は、そのために宗于のこの歌をえらんだのではないかという。
更に 「人目」 から18番・藤原敏行朝臣の
「住之江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ」
を惹起し、ついで、 「夢」 から67番・周防内侍 (スオウノナイシ)
の
「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそをしけれ」
が引き出されてくる。
すると当然、それは65番・相模 (サガミ) の
「うらみわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそおしけれ」
に連鎖する。
── こうやって連鎖する歌をつないでいくと百首いずれもぴたっと多層的な方形におさまる。
その面白さは推理小説を読むような興奮をもたらす。興味のある方は織田さんの本を片手に、百人一首の取札を床に撒いて配列を復元されてみられるとよい。織田さんは百人一首の神秘のベールをはじめて剥いで挑戦されたけれども、もしかしたら定家は、というより中世文化人は、もっと底深い楽しみ方を暗示しているかもしれない。伝承の呪縛から解放された現代の若者なら、また新しい観点から百人一首の秘宝を解明するのではなかろうか。
織田さんは、定家の百人一首が示唆するのは、後鳥羽天皇と式子 (シキシ)
内親王だという説である。彼の後鳥羽上皇に捧げる感傷は、鎌倉幕府の手前、秘し隠さねばならなかった。してまた、当代随一の女流歌人、式子内親王に抱く定家の恋も、胸ひとつに包まねばならぬ
「忍ぶ恋」 であった。されば定家は、後鳥羽上皇と式子内親王への思いを百人一首で暗喩 (アンユ)
した。
29番の凡河内躬恒 (オオシコウチノミツネ) の
「心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる 白菊の花」
もそうであるという。 ここは後鳥羽上皇の流された 「隠岐」 が、そして、上皇の愛して止まなかった 「菊の花」
がかくされている。
── というのが織田さんの意見で、その説明で、当面のところ私は幾多の疑問が解決された気がしている。尤も学問の世界では門外漢がいくら新説を打ち出し、画期的発見をしても、専門学者から黙殺されることが多い。
しかし学問に関係のない素人の我々が、織田さんの新説を知って、
< ワー、おもしろ。こら、おもろい >
と楽しむのは自由勝手である。そうして織田さんの提唱されるように百枚の札を並べ、その歌を眺めてみると、厳密な文字鎖にはなっていないけれど、同一語句がつながって、テーマやモチーフが歌仙を巻くように互いに匂い映りひびき交わし、上へ下へ、横へと連鎖しているのを発見するであろう。
ところで、この源宗于 (ミナモトノムネユキ) は三十六歌仙の一人である。三十六歌仙というのは、一条天皇のころ
(在位986〜1011) 当時の文化人ナンバーワンといわれた藤原公任
(フジワラキントウ) が選定した三十六人の歌人である。
源宗于は一般にはあまり知られない名前だが、歌にまつわる話を集めた 『大和
(ヤマト) 物語』 では、かまり活躍している。光孝天皇の皇子、是忠 (コレタダ)
新王の子で、臣籍に下って源姓となった。地方官を経て、右京 (ウキョウ)
の大夫 (カミ) になった (1933)
。これは元々は府知事と警視総監を兼ねたような官であったが、後には、有名無実の閑職となったようである。宗于は官位がはかばかしくすすまないので、宇多天皇にそれとなく昇進をお願いする歌など奉っている。
「沖つ風 ふけゐの浦に 立つ浪の なごりにさへや われはしづまむ」
吹井 (フケイ) の浦に沖から風が吹いて波が立ち、その波はざんぶりと岸辺を洗いますが、私はなかなか岸辺へさえ打ち上げられず、沈んだままでございます。いつまでもこう、浮き上がるときはないのでございましょうか
──。
官位が進まなくて腐ってはいるが、そのぶん、人生を楽しむこともシッカリ楽しんだようである。
いろんな女に恋歌を贈ったり贈られたり、している。おかっぱ頭の美少女にも惚れたりして多彩な恋愛遍歴である。子供もバラエティに富んでいて、歌よみの娘がいるかと思うとバクチに身をもち崩した息子もいる。
「親にもはらからにも憎まれければ、足の向かん方へゆかんとて、ひとの国へいきける」 と 「大和物語』 にはある。
「フーン。そういう人の歌やと思うと、人間的に共感できますな」
と与太郎青年はにわかに顔を輝かせる。バクチ狂いで都を捨てた息子は、他国から親友にこんな歌をよこした。
「しをりして ゆく旅なれど かりそめの 命知らねば 帰りしもせじ」
── 叱られ責められることを 「しをる」 という。枝を折って目印にするのも 「しをり」 という。
双方の意味をかけ、もう都へは帰れないかも分りませんと哀切な思いをのべるあたり、父親の 「山里は」 の歌のおもむきに似ている。
与太郎ではないが、王朝の昔にも、こんなバクチ狂いはいたのだ。28番の歌は平凡だが、作者の人生を思ってよむと面白い。
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