[口訳]
海上はるかに数多くの島々へかけて漕ぎ出して行ったと、どうか、都の人に告げてくれ、そこにいる蜑の釣舟よ |
[鑑賞]
藤原俊成は「ひとにはつげよといへるすがた、心、たぐひなく侍る也」とほめ、,『拾穂抄』にも師説をひいて、この歌が五句ことごとくあわれであることを言っている。和漢朗詠集に入っているのを見ても、この歌が平安朝貴族に愛唱されたことがわかるであろう。一代の詩人とうたわれ、風流才子を誇ったこの作者が、すでに初老近い身をもって、遠い孤島へ流されるのである。暗い冬の空、遠く広がる海、三十六湾、三千余島のはるかなる船路を前にして、この歌を詠んだ心持は、わかり過ぎるほどわかるような気がする。
「こぎいでぬと」には、いよいよなつかしい陸地を離れて、ゆらりと海上に浮かんだ瞬間の、限りない心細さが現れており、その心細さが「ひとにはつげよ蜑のつり舟」と、釣舟にまで訴えようとする、孤独感、哀愁感となって現れている。
はるかな孤島を目がけて、心細く漕いでゆく小さな一艘の船の姿が明らかに見えて、歴史のあわれさ苛酷さが思われる。 |
[作者]
小野篁(802〜852)は参議小野岑守の子。弘仁13年文章生に及第し、天長9年太宰少弐となり、翌年東宮学士となった。この年清原夏野等とともに『令義解』を撰んだ。
承和元年遣唐副使となり、3年出発したが、風のために帰った。翌年再び出発しようとしたが、大使藤原常嗣がみずから篁の船に乗り、篁を破損した船に乗せようとし、朝廷でもそれを許したので、篁は大いに怒り、病と称して船に乗らず、西道謡を作って遣唐使のことをそしった。ために嵯峨天皇の御怒りにふれ、わずか死一等を減じて、5年12月讃岐に流された。
この「わたの原八十島かけて」の歌は、その時難波から出発しようとして詠んだ歌である。時に年37歳。
しかし7年に召しかえされて本位に復し、後、蔵人頭・参議を経て従三位に叙せられ、仁寿2年12月薨じた。年51。
世に 野相公または野宰相といった。
詩文の才において一代に傑出し、博学宏才をもって鳴った。
その詩は『経国集』等に見え、『野相公集』五巻があったというが伝わらない。
和歌は勅撰集に12首入っている。『小野篁集』(書陵部蔵)は『篁物語』『篁日記』ともいわれ、後人の作であるが、その原型は篁の家集ではないかと思われ、その中の歌が『新古今集』等に入っている。
足利学校は篁の家熟であったといわれ、また『遊仙窟』に訓点を施したともいわれている。 |
「花の色は 雪にまじりて 見えずとも 香をたに匂へ
人の知るべく」 |
「泣く涙 雨と降らなむ
わたり川 水まさりなば 返り来るがに」 |
「数ならば かからましやは 世の中に いと悲しきは
賤のをだまき」 |
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「百人一首評解」
著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ |
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